いじめは「なくすもの」というより「向き合うべき問題」として考える方が現実的だと思う

いじめ問題

こんにちは。メヒシです。

私事ですが4月に転職をしまして、資格試験を受けたり等で私生活が慌ただしく
更新が滞っておりました。

日曜に試験も終わったため、この度ブログ更新を再開したく思います。
無理しないよう、徐々に更新していけたらいいなと思います。

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「いじめゼロ」の難しさ

さて、早速本題ですが、世の中に「いじめゼロ」という言葉が広く浸透しているように思えます。

特にこの「いじめゼロ」の目標を掲げている自治体も少なくありません。

それに対して、私は疑問を持つようになりました。なぜかと申しますと

結論から言うと
私には「いじめゼロ」は「到達不可能な目標」のように思えてしまうためです。

後述しますが
例えて言うなら、「仕事のミスゼロ」のようものに思えてしまうのです。

※筆者は、自身もいじめられた経験のある「いじめ断固反対」の立場です。
「いじめゼロ」はもちろん理想ですが、現実的に難しすぎると考えている。という記事です。

500人程度の少年少女の集団を想像してみてほしい

まず、想像してみてください。

例えば、その場に500人の14歳の少年少女がいたとします。
学力やスポーツのレベルもバラバラで、趣味も何もかもバラバラです。
もちろん性格もバラバラです。

この中から無作為に50人を選んで、1つのクラスを作っていくとします。
単純計算で、これで10クラスを作れることになります。

この集団内での「いじめゼロ」を想像できるか

実際に、公立の小・中学校ってこのような形で人が集まっているんですよね。

たまたま「住む場所が近い」「年齢が同じ」というだけの同級生たちが集められ
同じ空間にて数年間を共に過ごすことになります。
もちろん、これを悪いと言っているわけではありません。

さて、ここからあなたに聞きたいのですが

このように作られた集団内での「いじめゼロ」、想像できますか。

特に10代前半くらいの年代って「オレは凄い。アイツはしょぼい」等と
マウントを取りたくなる年代だと思うんです。

たった500人でも、難しいと思いませんか?

それでは更にこれを、一つの自治体で考えるといかがでしょう。

……途方もない話のように思えるのは私だけでしょうか。

以上のことより、私は、「いじめゼロ」は実現が非常に困難であると考えています。

「いじめゼロ」が招きうる悲劇

上記を読んで「いじめが発生したら止めればいい」「対策をすれば良い」と思った方もいると思います。

私もまさにその通りだと思っています。

しかし、単純にそれを妨げてしまうケースがあると、私は思っています。

それが他でもない「いじめゼロ」を謳った方針です。

何故私がそのような主張をするのかと言うと
「いじめゼロ」により「隠蔽に繋がる可能性が高くなる」と考えているからです。

あなたも、テレビのニュースで「いじめはなかった」「いじめの事実は確認されなかった」という
報道がなされているのを見ることがあると思います。

「いじめはなかった」という隠蔽はなぜ生まれるのか

例えばその自治体が「いじめゼロ」を謳うことによって
「いじめ」の発生そのものがタブー視されることに繋がる可能性があります。

そのため、仮にいじめが発覚した場合

それが「あってはならないこと」であるがために、その事実そのものを消そうと動いてしまうことがあり得るということです。

私自身も理想論を言うと「いじめはあってはならない」と考えています。

しかし、いじめを完全に無くすというのは、現実的に考えると相当困難なことでもあるとも思うのです。

中途半端に「いじめゼロ」を謳ったがために
起こっている問題に対して見て見ぬふりをする、生徒のケアもしない、放っておく。

その現実逃避こそが更なる悲劇に繋がると、私は言いたいのです。

いじめは起こってしまう。「向き合うべき問題」だと考える

いじめは、「もみ消す」「見て見ぬふりをする」「適当に対応する」等
こういったことにより、更なる悲劇に繋がると思っています。

だって、いじめられている人にとっての味方がいないわけですから
被害者が世の中に絶望してしまうのも無理はありません。

実際問題、私はいじめはそこら中で起こっていると思っています。
会社ですら、いい大人たちがいじめをやっていると聞きます。

おそらく、人間の手の施しようの範囲を超えているのだと考えます。

どう頑張っても起こってしまうときは起こってしまうと思うのです。

だからこそ、決してタブー視してはいけない。もみ消すものじゃない。

「向き合うべき問題」だと、私は考えるのです。

例えるなら、いじめは「仕事のミス」のように向き合おうと提案したい

前述しましたが、「仕事のミス」を考えてみましょう。

仕事のミスって絶対避けたいと思うものですよね。
でも現実的に考えると、「仕事のミスゼロ」は本当に難しいと思います。

人間のすることなので、ミスは起こります。
どんなに気を付けていても想定外な場面で起こり得ます。

実際に「私はただの一つもミスをしたことがありません」という人は非常に少ないと思います。

すぐに報連相

実際に、仕事でミスをした場合、私たちはどうしますか。

おそらく、すぐに上司に報告すると思います。
その上で、起きてしまったトラブルにどう対策をしようかと考えるはずです。

失敗を黙っている。隠す。というのは後々更に大きなトラブルに繋がる悪手ですよね。

いじめ問題についても同じであると考えています。

「すぐに報連相できる社会」でなくてはならない

いじめをタブー視するということは

「いじめの報告連絡=悪」

となり得るわけです。私はそれこそが大問題だと思うのです。

それは間違いなく、報告することを躊躇させます。

だからこそ、いじめの報告や連絡ができる社会でなくてはならない。
被害生徒のケア、加害生徒への教育ができなくてはならない。

「ウチの子はいじめなんてしない」は幻想。過度な期待を抱かない

これは怒られてしまうかもしれませんが、あえて言わせてほしいです。

「ウチの子に限って」とか「ウチの子は心配ない」というのは、おそらく幻想だと思います。

例えどんな愛情を注がれようと、高度な教育を施されていようと、場面によってはいじめをしてしまう人はいると思います。

人に期待をし過ぎるのは、大人に対してはもちろん、子どもに対しても良くないと私は思います。

そのため、自分のお子さんに対してであっても「期待しすぎ」は良くないかなと私は思うのです。

人間はいじめをしてしまう生き物。

なので、その被害を最小にするような対処こそ、現実的で有効なのだではないかと私は思います。

いじめによって起こってしまう凄惨な悲劇を減らしたい。
まだまだ勉強していきたいし
こうやって声を上げていきたいと考えています。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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